レンジローバーを作ったのは、ローバーというイギリスの会社です。日本では、あまり知られていないブランドですが、本国イギリスでは、そこそこ名の通った老舗の自動車メーカーで、レンジローバーが誕生した1970年には、ブリティッシュ・レイランドという巨大自動車会社グループの一員として活躍していました。

 それでは、このローバーという会社はどのようにして、レンジローバーという希有な名車を生み出すことに成功したのでしょうか。 それを知る前に、まずはローバーという会社がレンジローバーを開発するまでに歩んだ足跡について、少し調べてみましょう。

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 ローバー社のルーツは、1863年にイギリスのコベントリーというところで創業された「コベントリー・ソーイング・マシン」という裁縫用ミシンの製造会社でした。ジェームズ・スターレイとジョシア・ターナーの2人が作ったこのミシン製造会社は、ジェームズの甥であるジョン・ケンプ・スターレイらの入社と共に三輪および二輪の自転車開発にも乗り出し、後に自転車の製造を本格的に行う別会社を設立して、1877年にはその会社名を「スターレイ・アンド・サットン」と改めました。

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 この時、スターレイ・アンド・サットンが製品化した自転車の商品名が「ローバー」でした。英語の「Rove」には「さまよう、動き回る、放浪する」という意味があり、自由に動き回る乗り物ということで、「Rover」と命名されたわけです。ちなみに、アポロ計画で月面に着陸したアメリカの宇宙飛行士が、月の上で乗り回していたバギーのような車にも、同じような意味で「ローバー」という名前が付けられていました。


 この初代ローバー自転車が、そこそこの成功を収めたことで、スターレイ・アンド・サットンの事業規模は順調に拡大し、1896年には会社名も「ローバー自転車株式会社」へと変更されました。その後、フランスから輸入したプジョーのオートバイを研究したジョン・ケンプ・スターレイは、やがて発動機付きの単車および4輪自動車の製造にも手を出すようになります。

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 1902年に発動機付きの単車を、1904年には最初の4輪自動車を完成させた彼らは、1906年6月に会社名を「ローバー自動車株式会社」と改名し、英国の自動車メーカーとしての第一歩を踏み出します。これ以降、ローバー社は「中の上」といった位置づけの上品なクルマを作る会社として実績を積み重ね、第二次大戦が始まる1930年代にはイギリスの自動車産業界の中でも確固たる地位を築いていました。


 ところが、第二次大戦が勃発すると、イギリス本土の工業地帯はドイツ空軍による爆撃を受けて大きな被害を被り、戦争が終わった時には、イギリス経済は大きな危機に直面することになります。こうした状況の中、ローバー社はそれまでのようなセダンだけを作っていたのでは会社を維持できない状況に追い込まれ、輸出に適した四輪駆動の多目的自動車を新たに開発しました。

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 アメリカの軍用小型四輪駆動車「ジープ」にヒントを得て作られたこの四輪駆動車は「ランドローバー(大地を動き回る乗り物)」と名付けられ、1948年4月30日のアムステルダム・モーターショーで第1号車が公開されました。そして、当初は会社の苦境を救うための短期生産モデルとして開発されたランドローバーは、ヨーロッパ各国で予想を上回る好評を博し、ローバー社はそれまで手掛けたことのなかった汎用四輪駆動車の分野でも、大きな成功を勝ち取ることになったのです。


 1950年代に入り、イギリス経済が徐々に回復して企業への鉄鋼割り当て制が廃止されるようになると、ローバー社もセダン型乗用車の生産を再開し、ランドローバーとセダンの二本立てで、倒れかけていた会社の経営を再び軌道に乗せることに成功します。 そんなある日、ランドローバーの発案者であるモーリス・ウィルクスは、四輪駆動車分野での成功を、セダンの開発にも活かせないものだろうかと考え、オフロードでも快適に走れる乗用車の開発プロジェクトを、1951年に社内でスタートさせました。それが「ロードローバー(道路を動き回る乗り物)」と呼ばれる、レンジローバーの先祖となるクルマでした。

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 ローバー社のセダン「P4」をベースに、アルミボディを搭載したロードローバーは、四輪駆動ではなく後輪二輪のみの駆動で、悪路での走行性能もそれなりに高かったのですが、最終的には車体重量の増加などの理由で製品化は見送られ、1959年には開発計画そのものが一時的にストップしてしまいます。しかし、この開発作業におけるさまざまな研究は、決して無駄ではありませんでした。それから6年後の1965年、ロードローバー開発計画は、再びローバー社の上層部によって見直されます。


 そしてこの時、セダン部門の開発室から、一人の男がロードローバー開発チームへと配属されました。後にレンジローバーを生む立役者となる、チャールズ・スペンサー(スペン)・キングです。スペン・キングは、最初のロードローバー開発計画とは逆のコンセプト、つまり「オフロードでも快適に走れる二輪駆動の乗用車」ではなく「道路上でも快適に走れる四輪駆動車(ランドローバー)」という観点に立って開発をやり直し、フルタイムの四輪駆動車として基本設計を少しずつ固めていきました。

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 スペン・キングの構想では、新しいロードローバーは、一般の乗用車として町中を走る時には他のセダンを上回る快適さを備え、それでいて農場や狩り場、建築現場などの悪路でも他の四輪駆動車を上回る走破性能を持つ、いわば「オールマイティ・カー」となるはずでした。職人気質のエンジニアである彼は、販売サイドからの要望とは別に、一技術者としてのこだわりから、このような「オールマイティ・カー」を実現してやろうと考えたのです。


 こうして、1965年にスタートした野心的なプロジェクトは、ゆっくりと、しかし着実に前進を重ね、2年後の1967年7月には最初のプロトタイプが走行テストを開始します。ランドローバーのシャシー(車台)をベースに、乗り心地を良くするためのいろいろな工夫をサスペンションや緩衝機構などに盛り込んだ初号プロトタイプは、スペン・キングらの開発者を充分に満足させるだけの性能を発揮し、各種のテストを順調にこなしていきました。

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 ところが、その後の大成功を知る我々には想像もつかないことですが、当時のローバー社内では、この新型ロードローバー・プロジェクトの評判は、あまり芳しいものではありませんでした。基本的な開発構想があまりにも野心的であったため、セダンとランドローバーをそれぞれ担当する技術者は、最終的に廃案へと追い込まれた初代ロードローバーを引き合いに出して「そんな難しいクルマ、どうせ実現できっこないよ」と思い込んでいたのです。そして、ロードローバー・プロジェクトに駆り出されたスタッフには、同僚からこんな陰口が囁かれることになります。「あ〜あ、かわいそうに。あいつ、製品化されないクルマの仕事に回されちまったよ」


 新しいロードローバーにあまり期待していなかったのは、ローバー社の販売・営業部門も同じでした。当時はまだ、オンロードとオフロードの両方で高い性能を発揮するような自動車はどこにも存在せず、仮に実現したとしても売れるかどうかは未知数だったからです。けれども、新型ロードローバーの開発チームは、作業に際して、いくつかの重要な幸運に恵まれました。そのうちの一つが、ローバー社による、アメリカで設計された高性能なV8エンジンの製造権の獲得でした。

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 強力なV8エンジンを搭載した新型ロードローバーは、一般道路でのテストはもちろん、オフロードでのテストでもランドローバーに匹敵する性能を発揮するようになります。オフロード車の扱いに自信を持っていたランドローバー部門の開発スタッフは、最初のうち、新型ロードローバーを見て「これじゃあ耐久性に欠ける。悪路を走れば、すぐ壊れてしまうよ」と見くびっていましたが、やがて彼らの認識を根底から改めさせるような出来事が発生します。
 新型ロードローバーがランドローバーと共同で実施した悪路走破テストにおいて、悪路にめっぽう強いはずのランドローバーの方が、新型ロードローバーよりも先に故障してしまったのです。


 車体性能の開発は順調に進んでいましたが、クルマの評判に大きな影響を及ぼすボディのデザインについては、いまだ充分な時間と人員が割かれてはいませんでした。販売サイドではなく、技術者サイドからの要望で開発が進められたこともあり、テストの段階ではさほど重要視もされませんでしたが、完成が近づくにつれて、このままのデザインでいいのかという声がチームの内外から沸き起こり、ローバー社は自社のスタイリング部門に、新型ロードローバーのプロジェクトをサポートするよう指令を下します。

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 また、かんじんの「車名」についても、社内ではいろいろと意見が分かれていました。開発テスト用の車輌には、当初から使われていた「Road-Rover」のほか、ラテン系の言葉で「隠す」という意味を持つ「VELAR」という文字がボンネットに記されていましたが、販売部門では勝手に「パンサー」とか「クーガー」などという俗物的で工夫のない名称を考案していました。
 そんな時、開発チームの一員だったトニー・プールというエンジニアが「ランドローバーがあるんだから、このクルマは『レンジローバー』でいいじゃないか」と提案し、車名として正式に採用されることになります。「Range」という言葉には「山脈」という意味のほか「幅広い領域」「広い守備範囲」という意味もあるため、このクルマのコンセプトにピッタリの名前だったからです。


 1970年6月17日、遂に「レンジローバー」の発売が一般向けに発表され、レンジローバーの歴史が正式に幕を開けることになります。ローバー社の販売部門は、この期に及んでもなお、レンジローバーの成功を確信することができず、次のセダンが出るまではこのクルマを売って食いつなごうなどと考えていましたが、いざ蓋を開けてみると、レンジローバーはイギリス国内で大反響を巻き起こし、瞬く間に生産能力を上回るほどの追加注文を獲得して、ローバー社のトップセラーへと躍り出ました。

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 2ドアモデルとして発表された最初のレンジローバーは、当初の構想では特に「高級車」という位置づけはなされておらず、一台で四役を果たせる多目的車という売り込み方をされていました(広告コレクションのページを参照)。しかし、貴族階級をはじめとする英国の裕福な人々は、1970年10月に一般発売が開始されるやいなや「これこそ自分たちの求めていたクルマだ」と熱烈に歓迎し、レンジローバーを競って注文するようになります。路上でも路外でも快適に走行できるというレンジローバーならではの能力が、昼間は狐狩りや農場の視察で野外を走り、夜には正装して劇場へと同じクルマで乗り付けるという彼らのライフスタイルとぴったり合致したためです。

 

 こうして、発表直後から品薄の希少車となったレンジローバーは、プレミア付きの高値で取引されるようになり、やがて裕福な購買層からの更なるニーズに応えるための改良が、車体の各所に施されるようになります。最初のモデルでは水洗いが可能なほど質素だった車内のインテリアは、年を追うごとに高級感あふれるものとなり、1981年には4ドアのモデルが正式にラインナップへと加えられました。開発者の意図とは異なりましたが、レンジローバーは富裕層からの熱烈な支持に応える形で、徐々に「高級車」としての地位を確立し、遂には世界全域にその名を轟かす「四輪駆動車のロールスロイス」という異名を奉られるようになっていったのです。



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